伊野商業 渡辺智男(ナベトミ) 伝説の試合
まずは突然、渡辺智男について書くことになった経緯をご説明しよう。
今日、取引先の女性Yさん(20歳)が事務所を訪れたときのお話。年齢20歳と書いてあるが、これは今日聞いて初めて知ったことで私は25歳くらいかなと思っていた。Yさんにもそう伝えると(私はこの手のことをズバズバいってしまうと評判だが、某市役所勤務のIさんよりはましと言われ安心している今日この頃である^^)、ちょっとガッカリしていたので、
「いやいや落ち着いているからさ~」
などとありきたりのフォローを入れたらYさんはニコッとしていた(ほっ)。フォローですが、最初に入れるパターンもあるみたい。
「こんなこと言うとセクハラになっちゃうんだけどさぁ…」
これをこの手のトークの前に一発入れておけばOKらしいのだ。あ、ごくごく一部の組織でしか通用しないかも知れないので使うときは充分ご注意を。訴えられちゃっても責任持てませんので。こんな時は、ソフト屋さんっぽく「自己責任でご利用ください」なんて言えばいいのかな。私も個人的に使ってみたいんだけど、なんとなく彼(考案者 = イニシャルは「とてもとても素敵」なので出せません)の専売特許で勝手には使えない気がするだよなぁ(^^;
いやぁ、すっかり横道に逸れてしまった。
えっと、そのYさんが20歳だということを聞いて、
私 「じゃ、もしかして新卒で入ったの?」
Yさん 「はい、県商です。」(ちょっと恥ずかしそうに)
私 「ケンショウってどこ?」
Yさん 「伊野商業です。県商と市商があって、市商は高知商業なんです。」
これには「へぇ~」と思った。高知に来て5年目になるけど、きっと高知県人にとっては常識中の常識であろうこんな呼び名すら知らなかったわけかあ、とね。ま、高知の人に言わせれば、
「そんなん当たり前やろ。そんな簡単にこうち(「ち」にアクセント)のこと解られてたまるか、ボケっ!」
って感じでしょうけどね(^^;
で、この高知商業と伊野商業、私が8歳(昭和54年)~15歳(昭和61年)まで野球少年だったこともあり、高知商業と伊野商業+明徳義塾(私が野球をやっている頃、明徳に義塾がくっついて気持ちが悪かったことを付け加えておく。)の3校だけは高知へ来る前から知っていたんです。
で、Yさんが「県商」と恥ずかしそうに言ったことを受け、私は、(市商の方が頭がいいのかなぁ…)なんてことを想像しながらも率直な感想として、
私 「いいじゃん、伊野商。ナベトミだろ。渡辺智男。いやぁすごかったなぁ…。」
Yさん 「え、知りません。」
私 「え、ウソだろ。渡辺智男だよ。」
Yさん 「う~ん、わかりません。」
なんたることだ、彼一人で(当時のメンバーの方、ごめんなさい)伊野商業を全国区にしたというのに最近の生徒にはその偉大さを伝えていないのか。それとも入学式の校長先生のお話でちゃんと触れたにもかかわらず、Yさんがおねんねしていただけなのだろうか。全員がルーズソックスを履いていた時代だったというから後者が正解か。真相は闇の中だが実に残念な話だ。伝説は伝説として語り継がれるべきだよね。
私は愕然として、Yさんにナベトミの功績を話す気になれなかった。しかし、これはもしかするとあの伝説の試合が高知県において現在に正しく伝わっていないのではないかと心配になり突然書かせてもらうことにした。
まず渡辺智男っていうのはとんでもなくすごい男なのだ。
忘れもしない1985年、当時の高校野球は桑田・清原を擁するPL学園が圧倒的な強さを誇っていた。プロ野球ではご存じ、阪神が優勝した悪夢の年だ。でもバースと掛布と真弓は好き。岡田は嫌い。佐野は好きとか言ったら阪神ファンは喜んでくれるだろうか(^^;
さて、この年の選抜高校野球はPLが圧倒的な強さで優勝すると誰もが思っていた。その予想を完璧に覆してしまったのが伊野商業、渡辺智男だ。彼は、ださい眼鏡をかけ、ダイナミックなフォームから繰り出す時速150kmの剛速球とどこにいくかわからないノーコン(失礼、荒れ玉)で選抜代表になり、甲子園準決勝まで駒を進めた。そして伝説の名勝負、「伊野商業(高知県代表) vs PL学園(大阪府代表)」となったのである。これが伝説の名勝負と呼ぶ理由は私的に2つある。
1.PL学園は桑田・清原のKKコンビで1年の夏から3年の夏までの計5回全てに甲子園に出場し優勝2回、準優勝2回の輝かしい記録を残している。しかし、ただ一度だけ決勝に進めなかった大会がある。これが昭和60年(1985年)の選抜大会だ。そしてこれを見事に演じたのが高知県代表 伊野商業高校である。
2.この試合で渡辺智男は当時どこに投げても打たれそうな完璧なバッター清原和博を相手に1試合3奪三振をやってのけた。それもストレートでバッタバッタと三振をとる実に痛快なピッチングだった。補足だが、当時の清原はすごかった。今では想像もできない細身の強靱そうな肉体をくるりと回転させてインコースを甲子園のラッキーゾーンではなくスタンドに放り込んでいた映像は実に強烈だった。そんな清原からの3奪三振だっただけにとてつもなく価値があるのだ。当時の清原を見ているだけに何故プロに入って思いっきりインコース攻めをくらっているのか理解に苦しむっていうか、わかっているんだけど、これはまた別の機会に。
そして、このナベトミ3奪三振に関連して、一応フォローしておくことがある。清原が1年の夏からPLの四番に座り甲子園にセンセーショナルなデビューをしたのはご存じの通りだが、このとき準決勝で水野(元巨人)率いる池田高校と準決勝で対戦している。このとき、水野は1年生清原を相手に4打席4三振を奪っているのだ。これも確かにすごい。当時の水野はただ者ではなかった。しかし当時、清原は1年生、さらに試合はPLが池田を相手に7-0で圧勝している。故に、伊野商ナベトミが高校生として油の乗り切った清原から奪った3三振の方がドラマティックだと思えるのだ。この後、伊野商ナベトミの勢いは止まらず決勝でも帝京を相手に13奪三振(毎回)の力投で完封。初出場、初優勝へ大きく貢献したのもドラマティックに感じる大きな理由だ。
選抜というと、とかく夏の大会に比べ記憶から忘れ去られやすいのだが(私だけか)、この大会はそんな印象を全く感じさせない夏よりも暑い春という思いを起こさせてくれた思い出の大会だ。
もし独断と偏見で高知偉人伝なるものを作るとすれば、この渡辺智男を板垣退助の一つ上に位置づけたいと思う。じゃ、中西清起は?って思っている人が多いと思うけどそれは貴方が決めていいよ、あんまり興味がないので(^^;
(了)
参考:毎日新聞 優勝戦物語
注意:この文章に登場するみなさんは私がすごく尊敬する方ばかりですが、敬称略で書かせていただくことをご了承ください。